トリアージ
命を救うこと、諦めること。
先日のブログ『Little Anne 届きました(前編)』で、少ししか触れなかったので、本日お届けするのは『トリアージ』です。
最近は医療ドラマも多いので言葉だけは聞いた事あるという人もいると思うのですが、災害などで多数の傷病者が出た場合に、治療の優先順位をつけることを『トリアージ』といいます。
お世話になってる先輩が音楽を担当してるドラマの劇場版でも、台風の中、土砂崩れが起きて次々と運ばれてくる島の診療所で、どう考えても救えないだろ。という状況の中、ひとりだけが「何があっても全員助ける」と言って孤軍奮闘するのですが・・・その中で『トリアージ』という言葉が出ていたような気がします。
話を戻しましょう。映画の世界ではなく実際にトリアージの現場を撮影していた映像を、4か月前に見ました。
今年で28年になる阪神淡路大震災、淡路島で唯一の救急救命設備がある兵庫県立淡路病院での震災当日の映像で、おそらくトリアージを行っている医療現場を初めて撮影したものだという事でした。
あの日、震源地に近い淡路病院には、最初に軽症の患者さんが歩いて病院にやってきました。震災から2時間ほど経つと、次々と重症患者が運ばれてきて、病院のアチコチで心肺蘇生が行われていました。この状況は、誰もが初めて経験する事だったと言います。
そして、その日の指揮を取っていた医師が、外科部長の松田さんでした。松田さんは院内を回りながら若い医師たちに言います。
「やることやって、あかんかったら、次の人を助けなあかん」
蘇生が無理だと判断した患者に付き添ってる家族にも心肺蘇生を辞めることを、松田さんは告げていました
「心臓が止まって、呼吸が止まって20分経ちますので、蘇生は困難です。」
心肺蘇生をしてた医師にも「やめなさい。次の人に行きなさい。とにかく助けられる人を助けないかん」と言ってやめさせていました。
あの頃、まだトリアージという言葉や概念は、社会では殆ど知られてなかった時代です。医師の一人は、あの時を振り返って「(自分では)やめられない。止め時が分からない」と言ってました。
誰かが決めないと、助けられる命を救えない。その決断をしていた松田医師は、これまでずっと命を救うという仕事を続けていた人です。その人が命の選別をしなければいけなかったというのは、どんな思いだったのかと考えます。
あの時、淡路病院で現場にいた若い(若かった)医師が振り返りながら言ってました「自分には出来なかった」と。
当時の看護師長さんも蘇生中止の判断は、簡単に割り切れるものではなかったと仰ってました。けれど「冷静になったら、医療は、生きてる人のためにあるべきなんだろうと思います」とも言ってました。
1995年1月17日、淡路病院では、10代を含む6人に蘇生中止の末、死亡が告げられました。
助かる可能性のある人が命を落とさないようにする。瞬間瞬間の判断は、とても難しいと思います。映像として残っていたのは淡路病院で起こっていた事だけだったかもしれませんが、同じ事が、他の救急病院でも行われていたであろうと思います。
この時の映像を、救急救命士を目指す学生や病院関係者などに見てもらい講演を続けているのは、あの時、医者になって3年目だった水谷さんという医師です。水谷さんが講演で言ってた言葉です。
「決して、震災の時にこうしましょうというお話ではなくて、皆さんがこの現場にいたらどうしよう、というのをぜひ考えていただきたい。」
僕たちが備えたり、また、知識や経験を得る事で、それらを活かせるようにするという事は、少しでも命の選別をさせないようにするということにも繋がっているのではないかと思います。
追記します。
4ヶ月ほど前に見たトリアージが行われていた現場のドキュメンタリーです。気持ち的にキツイと思われるシーンもありますので、ご自分の判断でご覧ください。
先日のブログ『Little Anne 届きました(前編)』で、少ししか触れなかったので、本日お届けするのは『トリアージ』です。
最近は医療ドラマも多いので言葉だけは聞いた事あるという人もいると思うのですが、災害などで多数の傷病者が出た場合に、治療の優先順位をつけることを『トリアージ』といいます。
お世話になってる先輩が音楽を担当してるドラマの劇場版でも、台風の中、土砂崩れが起きて次々と運ばれてくる島の診療所で、どう考えても救えないだろ。という状況の中、ひとりだけが「何があっても全員助ける」と言って孤軍奮闘するのですが・・・その中で『トリアージ』という言葉が出ていたような気がします。
話を戻しましょう。映画の世界ではなく実際にトリアージの現場を撮影していた映像を、4か月前に見ました。
今年で28年になる阪神淡路大震災、淡路島で唯一の救急救命設備がある兵庫県立淡路病院での震災当日の映像で、おそらくトリアージを行っている医療現場を初めて撮影したものだという事でした。
あの日、震源地に近い淡路病院には、最初に軽症の患者さんが歩いて病院にやってきました。震災から2時間ほど経つと、次々と重症患者が運ばれてきて、病院のアチコチで心肺蘇生が行われていました。この状況は、誰もが初めて経験する事だったと言います。
そして、その日の指揮を取っていた医師が、外科部長の松田さんでした。松田さんは院内を回りながら若い医師たちに言います。
「やることやって、あかんかったら、次の人を助けなあかん」
蘇生が無理だと判断した患者に付き添ってる家族にも心肺蘇生を辞めることを、松田さんは告げていました
「心臓が止まって、呼吸が止まって20分経ちますので、蘇生は困難です。」
心肺蘇生をしてた医師にも「やめなさい。次の人に行きなさい。とにかく助けられる人を助けないかん」と言ってやめさせていました。
あの頃、まだトリアージという言葉や概念は、社会では殆ど知られてなかった時代です。医師の一人は、あの時を振り返って「(自分では)やめられない。止め時が分からない」と言ってました。
誰かが決めないと、助けられる命を救えない。その決断をしていた松田医師は、これまでずっと命を救うという仕事を続けていた人です。その人が命の選別をしなければいけなかったというのは、どんな思いだったのかと考えます。
あの時、淡路病院で現場にいた若い(若かった)医師が振り返りながら言ってました「自分には出来なかった」と。
当時の看護師長さんも蘇生中止の判断は、簡単に割り切れるものではなかったと仰ってました。けれど「冷静になったら、医療は、生きてる人のためにあるべきなんだろうと思います」とも言ってました。
1995年1月17日、淡路病院では、10代を含む6人に蘇生中止の末、死亡が告げられました。
助かる可能性のある人が命を落とさないようにする。瞬間瞬間の判断は、とても難しいと思います。映像として残っていたのは淡路病院で起こっていた事だけだったかもしれませんが、同じ事が、他の救急病院でも行われていたであろうと思います。
この時の映像を、救急救命士を目指す学生や病院関係者などに見てもらい講演を続けているのは、あの時、医者になって3年目だった水谷さんという医師です。水谷さんが講演で言ってた言葉です。
「決して、震災の時にこうしましょうというお話ではなくて、皆さんがこの現場にいたらどうしよう、というのをぜひ考えていただきたい。」
僕たちが備えたり、また、知識や経験を得る事で、それらを活かせるようにするという事は、少しでも命の選別をさせないようにするということにも繋がっているのではないかと思います。
追記します。
4ヶ月ほど前に見たトリアージが行われていた現場のドキュメンタリーです。気持ち的にキツイと思われるシーンもありますので、ご自分の判断でご覧ください。
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