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福島カツシゲ『本日も起志快晴!?』

毎日が攻めの姿勢

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鹿児島に行く前に④

本日も、アイツ、今、何してる?的にお届けします。




昨日のやっぴろ、上島安裕。そして、本日は深吾くん、小林深吾なのですが・・・



『深吾、今、何やってる・・・の?』



いや、なんとなく分かるのだけど、だいたい深吾くんは、謎めいてる。やっぴろと同じくして、深吾くんも、去年の7月から、倉敷市真備町と東京を往復する日々が続いてるのですが、つい先日は『公認心理師』と『臨床心理士』の資格試験に合格したり、全国で防災・減災の教育プログラム開発の講師をしていたり・・・とにかく



肩書が、いろいろあってアヤシイ。



TEAM防災ジャパンのサイトでは、ピースボート災害ボランティアセンタープログラムオフィサーって書いてるけど・・・



オフィサーって何?フィクサーみたいな感じ?



そんな深吾くんも、お父さんであり、時々、5歳の娘さんから弁当の発注があって、苦戦して『ととろのおにぎり』を作ったりしてますが、もうすぐ家族が増えるようなので、更に発注が増えてテンヤワンヤになるのだろうと思います。そういう意味では



テンヤーだったりワンヤーだったりするんじゃないでしょうか?



深吾くんとは、やっぴろ同様、石巻で初めましてでした。初めましての時の深吾くんは、ちょっと幅が狭くて斜めになったメガネで、薄いブルーというかグリーンというか、とにかく寒色系の色が入ってたので、映画に出てくるインテリヤクザにしか見えなかったです。



こんな風に書いてると、なかなか伝えるのが難しいというか、もちろん自分の書き方に問題があるのは分かってるのですが、深吾くんは、本当に頭がいいのです。頭がいいという表現は、なにかイヤミにも聞こえるかと思うのですが、イヤミなく頭のいい人だと思っています。



2011年9月、東日本大震災から半年が過ぎ、支援のカタチが変わっていく中で、僕は『石巻通心』という物を発行したいと考えていました。石巻にいると復興が進んでる実感はなかったけれど、徐々にマスコミが取り上げるニュースが、被災地は、復興に向かって元気に前を向いてるという流れにシフトチェンジしていた時期でした。



もちろん、復興していく明るいニュースもあったし、それを伝えるのは大切なことだと思うのですが、あの頃、僕の中で、かなりの違和感があったのだと記憶しています。夏休み以降、どんどんボランティアの数も減り、そうなると、一度石巻に来た人たちに、もう一度、足を運んで欲しいと思ったのが『石巻通心』を書こうと思ったキッカケです。



そんな『石巻通心』(全6号)の最初のページである『記憶と記録』を深吾くんにお願いしていました。冷静に、そして俯瞰で記録を振り返り、記憶をたどれる人は、深吾くんしかいないと思っていました。



東日本大震災の時、彼の携帯電話は、ずっと鳴り続けていました。



石巻通心の『記憶と記録』では、フェーズ(段階、局面)ごとに、どういう行動をとっていたかという記録と、その時に、深吾くんや他のボランティアメンバーが、どんな思いだったかを書いてもらいました。

スクリーンショット 2019-03-10 04.08.12

(画像をクリックすると、大きく見ることが出来ます)


フェーズ1 3月11日~3月17日(震災発生→派遣まで)
3・11 東日本大震災発生。観測史上最大M9・0
3・13 自衛隊活動開始
3・15 石巻災害ボランティアセンター開設
3・16 ピースボート先遣隊4名出発
3・17 先遣隊が初めて石巻入り


記録があることによって、記憶が鮮明に戻ってくることがあります。

20110318.jpg

震災後、1週間経っていない風景を、どんな思いで見ていたのだろうか



深吾くんは、フェーズを6つに分けて記録として書き記してくれました。そして、毎回コラムを書いてもらいました。第一号で書いてくれた一文を紹介します。



『震災から一週間経った時点では、街は完全に停止していた。大きな主要道路は、かろうじて通れるようになっていたが、少し脇に入ると瓦礫や車が山積みとなり人さえ通れない。冠水が激しく、至る所に大小の船が道を塞いでいた。そして、何処にどれほどの人達が避難しているのか、把握している人は誰もいなかった。刺すような寒さの中避難しているグループを見つけては、必要としている食料や水、防寒着などの支援物資を届けつづけた。時には、病院の患者さんと職員さん含め1500人分の食料が足りないという情報も舞い込んできた。どこもかしこも、圧倒的に人手が不足していた。

その頃、東京では「時期が早い。ボランティアは被災地の迷惑になる。」と言われていた。ただ現地に足を運んだ自分たちは、被災地の負担にならないように自己完結でき、組織化された大量のボランティアが必要だと確信していた。何よりも、目の前にいる被災者をほっておくわけにはいかなかった。』



この時、住民の人たちに『困ったことがあったら、連絡して下さい』と声をかけながら渡していたのが、深吾くんの携帯番号を書いた紙でした。だから、困った人たちの声は、直接、彼の耳に飛び込んできたのです。

2011040303.jpg

心身ともに疲れ果てた顔で、ホワイトボードに書かれた『声』を見つめています。



最終号(2012年5月発行)のコラムで、深吾くんは、こうまとめてくれました。


『これから未来の「記憶と記録」を紡ぎ出すのは、石巻と繋がる一人ひとりとなることでしょう。
そして、人が人を支援すること。
それは、出逢うこと。
人と人が支え援け(たすけ)合うこと。
それは、一方的なものではなく、お互いに影響し合うこと。
そこから、復興に向けた「新しい創造」が生まれる。』



この『記憶と記録』だけでなく『石巻通心』すべてが、あの頃、石巻で過ごしたボランティアや、その人たちを支えていた家族、そして、友人や知人の声でした。鹿児島で伝える事は、その人たちの声です。そして、その先にある石巻の人たちの声や想いです。



ホントは、まだまだ、たくさんの友人たちを紹介するべきだと思います。



ボランティアがキッカケで、石巻に移住した友人たち、省一くん風に言うと、石巻から帰らなかった友人たちがいます。



ボランティア同士で結婚した友人たち、石巻の人と結婚した友人たちがいます。



ボランティアがキッカケで仕事を辞めて、海外や国内で、農業を始めた友人たちがいます。



ボランティアがキッカケで仕事をやめて、まだ、何をしようか迷ってる友人たちがいます。



ボランティアには行けないと、悶々としていた友人たちがいます。



ボランティアには行かないと決めて、支援をしてくれていた友人たちがいます。



みんな、今、何してる?



本日、わずかな時間ですが、彼らのことを話したいと思います。鹿児島のみなさん、オプシアミスミにてお会いしましょう。時間は、13時からです。



鹿児島に友人のいるみなさん、お伝え下さい。

| ヒトリゴト | 03:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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