あの日、一人でロスに向かう飛行機に乗っていました。
機内でのアナウンスが、英語とタイ語(たしかタイ航空に乗っていた)だったので、何が起きたか全く理解出来ずにロス行きの飛行機はサンフランシスコに向かいました。飛行機から出された時に、ココがどこなのかすら分かっていませんでした。

とにかく空港の外に出ろと指示されて追い出されてる時に、空港内のテレビで、ビルに突っ込む飛行機の映像を見ても、まだ何が起きてるのか分かりませんでした。
持っていたのは1万円分のドル紙幣と、10日後の帰りのエアチケットだけでした。グレイハウンドバス(中・長距離バス)でロスまで行き、途中でお腹が減ったのでハンバーガーを食べて、残ったお金は200円ほどでした。
ロスからヒッチハイクで、目的地のラスベガスに向かいました。

ラスベガスにたどり着いて初めてニューヨークでとんでもない事が起きてると知りました。帰りの飛行機に乗れるかどうか分からないままロスに向かいましたが、お金がなかったので歩きでした。
砂漠のような場所を歩いては、途中で白骨になった牛(水牛)を見て、これは、なかなかシビアな状況だと実感しました。

小さな町にたどり着き、また、砂漠を歩くというのを繰り返してました。夜中にハイウェイの脇道でしゃがんでるところをポリスマンに捕まって

せっかく歩いてきた道を、パトカーで引き戻されました。
引き戻された街で、ヒッチハイクをしたら「どこまで行きたいんだ?」と言われたので「ここよりロスに近ければ、どこでもいい」とカタコトの英語でお願いしたら「お前はラッキーボーイだ。オレはロスに住んでるぜ」と言われました。その時、30歳を越えてたので、ボーイではないのだけど、とも思いましたが。
それから確か4日間、ロスに住んでるビルの家でお世話になりました。


彼の仕事の水道工事を手伝いました。

週末だけ遊びに来る娘(離婚してたので)の部屋をきれいに片付けてあげたら、10歳の女の子に「グッジョブ」と言われたりして、少しだけカチンときました。
本当にラッキーな事に、自分が手にしてるチケットの日から飛行機が飛び始めました。ビルは「もう少し水道工事を手伝ってくれないか」と言ってました。日本に帰りたいということを伝えたら、ビルは歌を歌ってくれました。

次の日、ビルとビルの友だち親子が空港まで送ってくれました。そのままチケットが使えて、チケット振替のための長蛇の列に並ばずに済みました。後でわかったのだけど、非常事態だったので、振替の場合のチケットは新たに買わなければいけなかったようでした。


日本に帰ってこられたのは、本当にラッキーだったと思います。
20年前のあの時、アメリカにいました。お世話になったビルは、元軍人だった事も少なからず関係してると思うのですが、車に自らペンキで『It's time for pay back!』と書いていました。

街に出ると、イライラしてる人がいて、車のクラクションがよく鳴らされ、大声を上げる人たちがいました。
なんの結論も、まとめも出来ないけれど、あの時、僕はアメリカにいて、アメリカ人に感謝する事も、アメリカがイヤだなと思うこともありました。
20年前の今日、多くの人が悲しみに暮れ、その後に過ごした時間で、すでに傷が癒えているとは思えないですが、少しでも笑顔の時間が増えていればいいなと思います。そして、多くの人が平和について、もう一度、もう何度でも考える時間とならなければいけないのだとも思います。
20年前の事と関連付けるつもりはないけれど、何かが起きた時に、上に立つ人がどういう考えで、どう動き、どう指示を出すのかというのは、とても大事だと思うし、それを想像して上に立つべき人を決めなければいけないとも思います。何か想定外のことが起きた時ではなく、平時の時に、その人が何を考えて、どういう言動をしているかというのは見ておかないといけないのではないかと。
それが、自分の国のトップであれば、なおさらだと思うのです。
りんママ(03/10)
kimie(02/18)
(02/15)
富良野 瀬川謙二郎(02/13)
ゆっち(02/09)
ゆっち(08/31)
ノンタン(07/12)
ゆっち(03/09)
高田博厚(01/06)
美由希(01/01)