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福島カツシゲ『本日も起志快晴!?』

毎日が攻めの姿勢

2019年02月 | ARCHIVE-SELECT | 2019年04月

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みずほ銀行

ジャックス支店。




オカンから振り込みを頼まれた。それが、みずほ銀行のジャックス支店だと言う。



はぁ?ジャックス支店?



新宿支店とか、渋谷支店じゃなくて、ジャックス支店?



オカンに話を聞いたら、カード会社の人に、ジャックス支店に振り込むように言われたと。まぁ、そんな大きな額ではないので、まさか、振り込め詐欺ではないと思うのだが、一応確認しようと電話をした。



まずオカンが電話して、担当の人というのがいるらしいが、電話中なので折り返したいと



いやいやいや、ジャックス支店というのが存在するかだけを聞きたかったので、電話を変わって話をすると



ご本人様ですか?と



いや、本人の息子ですが、ちょっと質問がありまして。と。



答えるには、ご本人様の了承が必要です。と。



いやいや、ちょっと質問だけだから。と。



それでも、ご本人様の了承を。と。



で、もう一度オカンに変わって、はい、了承して。と。



オカンが了承して、では、質問ですけど、みずほ銀行にジャックス支店というのがあるんですか?



で、ここでビックリした。



その質問に答えていいかを確認します。と。



え、え、え?支店があるかどうかを答えるのに、上司の確認が必要?



はい。そして保留音楽が流れる・・・



しばらく待って、電話口から「はい、ジャックス支店は、ございます。」と。



いやいやいや・・・なんなん?これ、なんなん?



これが時代というやつか・・・

| ヒトリゴト | 12:30 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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本番2日前の舞台に!

急遽、代役で出演することになりまして・・・





昔からの知り合いが、横浜の市民劇団をやっていまして、ちょっと重要な役のオジサンが、急に出れなくなって、その理由が、小学生の息子の受験当日と重なったからという・・・



どうしてもということで、座長が菓子折りを持ってやってきたので、引き受けてしまったのですが・・・



台本を読んでいても、全くセリフが入ってこないんです・・・



しかも、殺陣がありまして・・・



よくよく聞いたら、最後にソロの歌があって・・・



2日前ですよ!!それは、いくらなんでも!!!って言ってるうちに、舞台の当日になって・・・



楽屋でメイクしてスタンバイしてるんですけど、本番3分前に「そのメイク違います!!」って言われて、慌ててメイクを直してる・・・



という夢を見て、汗まみれで起きました。



なんでしょうね?こういう夢、久しぶりに見たんですけど、なんていうか定番の夢なんです。



こういう舞台で焦る夢を見てるうちは、まだまだ舞台に向かってるという、勝手な解釈で楽しんでます。



さぁ、3月も半分が過ぎてます。自分で決めた色々を、ちゃんと前に進めないといかんですね。

| ヒトリゴト | 05:44 | comments:1 | trackbacks:0 | TOP↑

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注意喚起・アポ電詐欺

高齢者を狙うとは、卑劣な手口だ!




オカンが、テレビでやってた『アポ電詐欺に騙されない!』的な番組を見ながらメモしてたのだが、途中で番組のスピードに追いつかなくなってた。



でも、まぁ、ほぼほぼ正解なんじゃないかと思う。



その後、ツイッターで、番組を見てた人に『この後、なんて言うてました?』と呼びかけると、親切な人たちが、すぐに教えてくれました。





で、電話機の前に貼っておくと書いてるものの、そもそも



電話機がない事に気づいたようです。



そして、悩んだ結果



携帯電話の充電器に貼ってました。




ただ、電話にでる時は、充電器から取ってるんですよね・・・まぁ、ええか。

| ヒトリゴト | 12:45 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鹿児島から帰る前に

間に合わず、ただいま羽田空港。




帰りは揺れずにナイスパイロット!!前線の影響で揺れることを覚悟していたのですが、ずっと穏やかな上空で、ふと飛行機の下を見ると、新島が見えて、海の色もキレイで得した気分でした。とても上手な離陸&着陸。



さて、鹿児島での報告です。



今回、話をさせてもらったのは、ブログで紹介した4人の今の活動と生活から、あの時に動き、考え、想像したであろう事を伝えました。



最初に、去年を少し振り返り、報告をさせてもらいました。去年はイベント後に『石巻通心(6号セット)』を販売させてもらい、売上金額 148,956円を全額、ピースボート災害ボランティアセンターへ、支援金として届けました。



これまでに、鹿児島のみなさんから預かった義援金(第1回と第2回は募金を集めて届けました)支援金の総額は1,187,944円になりました。



そして、2018年には『義援金と支援金の違い』『防災から減災』そして『ボランティアが必要なわけ』などを話した事をふりかえりました。

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2018年は災害の多かった年でした。

6月18日……大阪北部地震(震度6弱)
6月22日……新燃岳爆発的噴火
7月6〜8日…西日本豪雨災害、堤防決壊による浸水被害多数
7月 …………猛暑。連日40度越え
7月末 ………迷走台風12号、東から西へ日本横断
8月末 ………台風20号被害
9月4日 ……台風21号被害、阪神直撃し関空水没他被害多数
9月6日 ……北海道胆振東部地震(震度7)



僕が言うまでもなく、備えておくべき事は、防災グッズだったり、家具の固定グッズだったりいろいろあると思います。ただ、それを僕が鹿児島まで来て、みなさんに話すべき事ではないと思い、別の角度から話をさせてもらいました。



被災した人のインタビューで必ず出てくるのが、『まさか、ここが…ここは大丈夫だと思った。』という言葉です。これだけの自然災害が起きていて、将来、災害に遭わない人がいたとしたら、それは、ただただラッキーなのだと思うのです。



今後は『ここは、災害が起きると用心していましたけど、まさか大丈夫だったなんて思いませんでした。』というインタビューが出てくる時代が来るかもしれません。



備えておいて欲しいと思ってるのは『想像力』です。想像するためには、知るという事、経験するという事が大切なんだと思います。



ヨシノリくんの『人さえいればなんとかなる』という言葉があって、僕は石巻に向かいました。

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ヨシノリくんが想像したように、大勢の人(ボランティア)が集まったゴールデンウイークに、大きく動きました。



600人以上のボランティアを送り出す準備が出来てる東京から、石巻では受け入れられるかと判断を迫られた時、想像して考える時間もなく

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やっぴろが『出来るか出来ないかではなく、やります』と答えました。



想像を、遥かに超えた住民の人たちの声が、常に深吾くんの携帯電話に届いていました。その半年後、冷静かつ俯瞰で記録を振り返り、記憶をたどれる人は

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深吾くんしかいないと思っていました。



写真家である省一くんは、震災後の町でシャッターを切る自分を想像できなくて、カメラを持たずに石巻に向かいました。



そんな省一くんが、2013年から撮り続けている風景は、石巻の町が夜から朝に変わる瞬間の風景です。その風景を集めたフォトブックが『いしのまきのあさ』です。ページをめくると『消えゆく景色』『そこにあり続ける景色』『新しく始まる景色』があります。



このフォトブックを1,000円で販売させてもらいました。そして、79冊も売れました。で、驚くのは79冊なので、売上金は79,000円なのですが、お金を入れてもらう箱に入っていた金額を数えると166,800円ありました。



計算が、全く合わないのです。



しかも、本来1,080円なのですが、お釣りのやり取りが大変なので、ステージ上で、つい、1,000円で、消費税分はジャパネット方式の『シゲネット福島』が負担しますと言っちゃったので、79冊分の消費税6,320円を足した



173,120円を鈴木省一くんに届けます。



売上金ですが、本来一冊1,080円の売り上げから200円(約20%)を、岡山県倉敷市真備町で写真洗浄をする活動に届けるという事なので79冊分の200円(15,800円)となるのですが、今回は、フォトブックの売り上げ金(鹿児島のみなさんの想いも込みで)総額の20%である34,630円を『真備町写真洗浄@あらいぐま岡山』へ届けてもらう事になりました。



また、34,630円以外は、省一くんの今後の石巻や倉敷市真備町での活動や『記憶と記録』を残す活動に使わせていただきます。鹿児島のみなさん、また来年もよろしくお願いします。



今回、写真に残された『記録と記憶』の事を伝えるのに、ひとり紹介しました。

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浜の大将・石森裕治さんです。



この人が、仮設住宅でお茶をごちそうしてくれた時に『ここには、布団もテレビも冷蔵庫も、生活用品は全部揃ってんだけど、ガラーンとしてんだわ。ふりかえる思い出が、なんもないからなんだ。』と言いました。



流されてしまったアルバムには、ふりかえる事が出来る思い出が詰まっています。



浸水した家にかろうじて残されていたアルバムの中に、思い出をふりかえる事が出来る写真を救う活動があります。

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現在、省一くんは、倉敷市真備町で写真洗浄活動を行っています。

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お時間のある方は、是非!!

| ヒトリゴト | 15:44 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鹿児島に行く前に④

本日も、アイツ、今、何してる?的にお届けします。




昨日のやっぴろ、上島安裕。そして、本日は深吾くん、小林深吾なのですが・・・



『深吾、今、何やってる・・・の?』



いや、なんとなく分かるのだけど、だいたい深吾くんは、謎めいてる。やっぴろと同じくして、深吾くんも、去年の7月から、倉敷市真備町と東京を往復する日々が続いてるのですが、つい先日は『公認心理師』と『臨床心理士』の資格試験に合格したり、全国で防災・減災の教育プログラム開発の講師をしていたり・・・とにかく



肩書が、いろいろあってアヤシイ。



TEAM防災ジャパンのサイトでは、ピースボート災害ボランティアセンタープログラムオフィサーって書いてるけど・・・



オフィサーって何?フィクサーみたいな感じ?



そんな深吾くんも、お父さんであり、時々、5歳の娘さんから弁当の発注があって、苦戦して『ととろのおにぎり』を作ったりしてますが、もうすぐ家族が増えるようなので、更に発注が増えてテンヤワンヤになるのだろうと思います。そういう意味では



テンヤーだったりワンヤーだったりするんじゃないでしょうか?



深吾くんとは、やっぴろ同様、石巻で初めましてでした。初めましての時の深吾くんは、ちょっと幅が狭くて斜めになったメガネで、薄いブルーというかグリーンというか、とにかく寒色系の色が入ってたので、映画に出てくるインテリヤクザにしか見えなかったです。



こんな風に書いてると、なかなか伝えるのが難しいというか、もちろん自分の書き方に問題があるのは分かってるのですが、深吾くんは、本当に頭がいいのです。頭がいいという表現は、なにかイヤミにも聞こえるかと思うのですが、イヤミなく頭のいい人だと思っています。



2011年9月、東日本大震災から半年が過ぎ、支援のカタチが変わっていく中で、僕は『石巻通心』という物を発行したいと考えていました。石巻にいると復興が進んでる実感はなかったけれど、徐々にマスコミが取り上げるニュースが、被災地は、復興に向かって元気に前を向いてるという流れにシフトチェンジしていた時期でした。



もちろん、復興していく明るいニュースもあったし、それを伝えるのは大切なことだと思うのですが、あの頃、僕の中で、かなりの違和感があったのだと記憶しています。夏休み以降、どんどんボランティアの数も減り、そうなると、一度石巻に来た人たちに、もう一度、足を運んで欲しいと思ったのが『石巻通心』を書こうと思ったキッカケです。



そんな『石巻通心』(全6号)の最初のページである『記憶と記録』を深吾くんにお願いしていました。冷静に、そして俯瞰で記録を振り返り、記憶をたどれる人は、深吾くんしかいないと思っていました。



東日本大震災の時、彼の携帯電話は、ずっと鳴り続けていました。



石巻通心の『記憶と記録』では、フェーズ(段階、局面)ごとに、どういう行動をとっていたかという記録と、その時に、深吾くんや他のボランティアメンバーが、どんな思いだったかを書いてもらいました。

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(画像をクリックすると、大きく見ることが出来ます)


フェーズ1 3月11日~3月17日(震災発生→派遣まで)
3・11 東日本大震災発生。観測史上最大M9・0
3・13 自衛隊活動開始
3・15 石巻災害ボランティアセンター開設
3・16 ピースボート先遣隊4名出発
3・17 先遣隊が初めて石巻入り


記録があることによって、記憶が鮮明に戻ってくることがあります。

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震災後、1週間経っていない風景を、どんな思いで見ていたのだろうか



深吾くんは、フェーズを6つに分けて記録として書き記してくれました。そして、毎回コラムを書いてもらいました。第一号で書いてくれた一文を紹介します。



『震災から一週間経った時点では、街は完全に停止していた。大きな主要道路は、かろうじて通れるようになっていたが、少し脇に入ると瓦礫や車が山積みとなり人さえ通れない。冠水が激しく、至る所に大小の船が道を塞いでいた。そして、何処にどれほどの人達が避難しているのか、把握している人は誰もいなかった。刺すような寒さの中避難しているグループを見つけては、必要としている食料や水、防寒着などの支援物資を届けつづけた。時には、病院の患者さんと職員さん含め1500人分の食料が足りないという情報も舞い込んできた。どこもかしこも、圧倒的に人手が不足していた。

その頃、東京では「時期が早い。ボランティアは被災地の迷惑になる。」と言われていた。ただ現地に足を運んだ自分たちは、被災地の負担にならないように自己完結でき、組織化された大量のボランティアが必要だと確信していた。何よりも、目の前にいる被災者をほっておくわけにはいかなかった。』



この時、住民の人たちに『困ったことがあったら、連絡して下さい』と声をかけながら渡していたのが、深吾くんの携帯番号を書いた紙でした。だから、困った人たちの声は、直接、彼の耳に飛び込んできたのです。

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心身ともに疲れ果てた顔で、ホワイトボードに書かれた『声』を見つめています。



最終号(2012年5月発行)のコラムで、深吾くんは、こうまとめてくれました。


『これから未来の「記憶と記録」を紡ぎ出すのは、石巻と繋がる一人ひとりとなることでしょう。
そして、人が人を支援すること。
それは、出逢うこと。
人と人が支え援け(たすけ)合うこと。
それは、一方的なものではなく、お互いに影響し合うこと。
そこから、復興に向けた「新しい創造」が生まれる。』



この『記憶と記録』だけでなく『石巻通心』すべてが、あの頃、石巻で過ごしたボランティアや、その人たちを支えていた家族、そして、友人や知人の声でした。鹿児島で伝える事は、その人たちの声です。そして、その先にある石巻の人たちの声や想いです。



ホントは、まだまだ、たくさんの友人たちを紹介するべきだと思います。



ボランティアがキッカケで、石巻に移住した友人たち、省一くん風に言うと、石巻から帰らなかった友人たちがいます。



ボランティア同士で結婚した友人たち、石巻の人と結婚した友人たちがいます。



ボランティアがキッカケで仕事を辞めて、海外や国内で、農業を始めた友人たちがいます。



ボランティアがキッカケで仕事をやめて、まだ、何をしようか迷ってる友人たちがいます。



ボランティアには行けないと、悶々としていた友人たちがいます。



ボランティアには行かないと決めて、支援をしてくれていた友人たちがいます。



みんな、今、何してる?



本日、わずかな時間ですが、彼らのことを話したいと思います。鹿児島のみなさん、オプシアミスミにてお会いしましょう。時間は、13時からです。



鹿児島に友人のいるみなさん、お伝え下さい。

| ヒトリゴト | 03:07 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鹿児島に行く前に③

アイツ、今、何してる?的な紹介、第3弾です。





昨日紹介したヨシノリくんと一緒に石巻に入った友人が、他に3人いました。ジュニア、やっぴろ、深吾くん。ジュニア(山本隆)は、元々の友人、いや、ライバルか?まぁ、そんな関係ですが、やっぴろと深吾くんとは、まだ、この時は友人になる前でした。そんな2人の珍しいツーショット

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2011年3月18日。石巻に入ってすぐの頃です。



『やっぴろ、今、事務局長やってるってよ。』



やっぴろ、上島安裕くんは、ピースボート災害ボランティアセンターで、事務局長をしているボランティアのプロフェッショナルです。いや、言葉のチョイスがオカシイですね。ボランティアではなく、災害支援のプロフェッショナルです。



大きな災害が起きてすぐは自衛隊が動きます。その後、早い段階でボランティアが必要になります。目に見える活動として、物資の配布や炊き出し、これらは、生きていく上で、急がなければいけないライフラインです。そして自宅の復旧活動として、家の泥出しなどがあります。



これらも支援活動ですが、ホントの意味で支え応援するのは、ライフラインの復旧以降に継続的に行われる活動なんじゃないかと思うのです。



やっぴろは、災害支援のプロです。では、プロって何よ?って事なのですが、経験や知識はもちろんですが、もうひとつ大切なモノを上げるなら『想像力』なんじゃないかと勝手に思っています。



やっぴろは、現在、2018年7月に起きた西日本豪雨災害で大きな被害を受けた岡山県倉敷市真備町と東京の往復が続いています。今、何が必要で、2018年の夏休み以降、減っていくボランティアの人数で、どういう活動を優先しなければいけないか、また、どういう活動ができるのかを現場で判断しないといけないポジションにいます。



石巻にいた頃、やっぴろが、よく使っていた言葉を思い出します。



『ゆるやかに撤退しましょう。』



被災地で行っていた『炊き出し』や『物資の配布』そして『漁業支援』などは、いずれ、その支援活動を終える時が来ます。その時期というのは「はい、ここまでです。」と期限を決めての撤退ではなく、ゆるやかに撤退していく。



誤解を恐れずにいうなら、住民のみなさんが気づかないうちに撤退するのがベストじゃないかと思います。とても無責任な言葉に聞こえるかもしれませんが、いなくなった事に気づかないほど、必要ではなくなったタイミングという意味です。



もちろん、場所によって様々です。炊き出しをしていた場所があります。その近くで、休んでいたお店が再開しました。炊き出しは続けるべきなのでしょうか?



定期的に物資を配布してる場所の近くで、地元のスーパーが、従業員の皆さんの頑張りで、お店を再開させました。その横で、無料の物資を配布し続けるべきなのでしょうか?



そういった判断も出来るのが、災害支援のプロなんじゃないかと思います。そして、あの頃の『ゆるやかな撤退』を経験として、次の災害支援に活かすのが、プロなんだろうと思います。



もちろん、いつまでも撤退できなかった場所や活動もありました。ずっと手探りでやってきたので、常に葛藤と闘っていました。



そして『想像力』が、必要なんだと強く感じた、やっぴろの言葉があります。



先に書いたように、東日本大震災の発災直後の3月17日に、やっぴろたち4人は石巻に入りました。石巻の状況を見て、ボランティアの受け入れと、その活動のまとめ役をやっていたのが、やっぴろです。

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僕が石巻で活動してた時も、こんな姿をよく見ました。



そして、2011年のゴールデンウィークです。

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企業や団体のボランティアを合わせ1日約600人以上のボランティアが東京を中心に全国から来る事になり、やっぴろたち、受け入れる側は、大勢のボランティアを受け入れても活動が止まらない体制を整えないといけなかったのです。



もちろんボランティアは自己完結でやってきます。自分が滞在する期間の食料や寝泊まりするテント、そして、ボランティア活動をする装備など必要なものを持ち込んでやってきます。



ただ、大勢になると寝泊まりの出来る(個人だと車中泊をする人もいます)安全な場所の確保が必要になります。



特に、東日本大震災の時は、どこが安全で、どこが危険なのかを、遠方から来たばかりの人には判断出来なかったと思います。石巻に来た多くのボランティアは、専修大学のグランドにテントを持ち込んで寝泊まりをしてました。

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バスでやってきた600人のボランティアの人たちは、専修大学に来るまでに見た風景で、いろんな思いを抱えて、これからの活動に向かおうとしていたのだと思います。



そのボランティアの人たちに伝えなければならない大切な事は、たくさんあったと思うのですが、簡潔に3つの事だけを伝えていました。



①『安全第一・自分自身がケガをしないこと』

ケガをすることで、自分が活動出来なくなるのは当然ですが、現場の活動全体が止まることもあります。そして病院などに行くことになると、地元の人たちの診察に迷惑がかかります。大きなケガになると、ボランティア活動自体が出来なくなるということまで頭に入れて活動をしてもらいたい。という事。



②『待つことも活動』

被災した地域では、天気によって出来なくなる活動があります。安全を考えながら、待ってもらう事も出てきます。仕事を休んだり、短期間でボランティアに来てくれた人たちは、とにかく何かをやらなければという気持ちでいるというのは十分に理解できますが、活動しない勇気も持って欲しい。という事。



そして、3つ目が『想像力』です。



③『被災した人と同じ気持ちにはなれないけれど、その気持ちを想像しながら行動する』

これが一番大切だったような気がします。ここでは、家族や友人を失っていたり、家がなくなっていたり、ずっと避難所暮らしだったり、自分たちが経験したことのない事が一度に押し寄せてる場所なんだということを頭に入れて活動して欲しい。という事。



今日のブログの写真も、ほとんどはヨシノリくんが残してくれた記録です。

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貴重な入浴シーンです。



あの頃、毎日の活動を終えると倒れるように寝てました。車で少し走った場所の道の駅で、温泉が再開した時も、住民さんたち優先に入ってもらったので、お風呂に入ることは、ほとんどありませんでした。



この写真は、自衛隊の人たちが、お風呂を設営してくれた時、さすがに住民さんたちが笑いながら『あんたたちの方が汚いんだから、ちゃんと入んなさい。』と言ってもらい、汚い人の筆頭・やっぴろもお風呂に入ってました。



残してくれた記録のおおかげで、あいまいだった記憶が鮮明になることがあります。



やっぴろの結婚式で司会をやりました。素敵な奥さんでした。今は2人のこどもの父親です。今日は、東京にいるのでしょうか?真備にいるのでしょうか?奥さんや、こどもたちとは会えているのでしょうか?



ちょっと前に、久しぶりに一緒に飲んだりしたのですが、なかなか、ゆっくり会えない家族が待っていただろうなと、後になって反省しました。



鹿児島に行くのは、明日です。『第9回東日本震災からの復興を願って 吉俣良チャリティライブ』は・・・コチラ

| ヒトリゴト | 08:55 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鹿児島へ行く前に②

アイツ、今、何してる?的にご紹介。





何度か書いてると思うのですが、僕が石巻に行ったキッカケは、上野祥法、ヨシノリくんでした。



『ヨシノリ、今、安城で『KAZENOICHI(カゼノイチ)』って、カフェやってるってよ』

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2018年6月に立ち寄った時。



そもそも、安城ってどこやねん?って事ですが、愛知県安城市、名古屋の隣です。Google Mapだと

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『BOOK CAFE & BAR カゼノイチ』と出ます。



現在は、セメント文字で『CURRY COFFEE MUSIC BOOK KAZENOICHI』という素敵な看板を製作中のハズです。ただ、そうなると「で、メインは何?」という声が聞こえてきますが、彼の性格上、どれもメインで、その上、偏ってます。



ヨシノリくんは、震災後すぐに支援物資をトラックに積んで、東北へ向かいました。そして、石巻に入ったのが3月17日でした。



ヨシノリくんの本職は、省一くんと同じく写真家です。昨日紹介した省一くんとは違い、ヨシノリくんはカメラを持って東北に向かいました。伝えるために必要だという強い思いがあったからだと思います。



そして、あの頃の写真があるから、僕は、自分がいなかった時の石巻を、さかのぼって想像することが出来ます。



石巻では、必要な物資を配布し、料理も出来るヨシノリくんは、炊き出しを作り、それを届ける。たぶん、そんな単純な事ではなかっただろうと、彼が撮影した写真から想像します。

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とにかく人手が足りない。『人さえいれば、なんとかなる』と、SNSで呟き続けていました。

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僕が石巻に向かうキッカケになった男であり、言葉でした。



ヨシノリくんのカメラなので、本人が写ってるということはないのですが、誰かがシャッターを切ったのでしょう

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2011年4月3日の朝のヒトトキです。




今年も、オプシアミスミで、喋らせていただきます。ヨシノリくんから始まった、僕の石巻にいた時間を。詳細は・・・コチラ





鹿児島に行く前に③につづく・・・予定。


| ヒトリゴト | 22:00 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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鹿児島へ行く前に①

キッカケの人たち。





2011年3月11日に東北地方で大きな地震がありました。2週間後に鹿児島で『10年間、このLIVEを続けて、鹿児島から応援したい。』と言って、吉俣良さんの呼びかけで始まったチャリティLIVEが、今回で9回目となります。



僕は、第3回目の2013年3月から参加させてもらっています。毎年、ステージでは、その時、僕が伝えられることを喋らせてもらっています。



今年は、石巻で活動してきた『記録と記憶』をたどりながら、そこで出会った人たちの活動を伝えられればと思っています。出会った人たちの『あの頃の活動』ではなく、今の活動や生活から伝えたいと思っています。



今も災害支援を続けてる人もいますが、僕も含めて多くの人たちは元の仕事に戻っています。新しく仕事を始めた人、仕事してない人、結婚した人、こどもを産んだ人、独身を続けてる人、別れた人など様々です。



あの頃のように、生活のド真ん中に石巻という町や、災害支援という活動があるのではなく、でも、生活の一部には、石巻があり、災害への関心があるのだと思います。そんな友人たちを『アイツ、今、何してる?』的に伝えたいと思います。



鹿児島に伝えに行く前に、このブログでも、紹介したいと思います。そんな今日の『アイツ』は、鈴木省一くんです。



『鈴木省一、今、倉敷市真備町で、写真洗ってるってよ』



東日本大震災後、自分に出来る事がないかと、3月末には、ボランティアとして石巻に向かっていました。そんな省一くんは、写真家(カメラマン)ですが、カメラを持って行きませんでした。



あの頃、写真を撮って伝えるというのは、大切な事でもありました。ただ、その活動は、自分以外の誰かがやるだろうと考え、自分のやるべき事は別にあると考えたからカメラは置いてきたと言ってました。



省一くんは、石巻から車で1時間ほどの雄勝町に、作った炊き出しを運ぶという活動を中心にやってました。そして、初めて雄勝町に向かった時に見た風景が、その後、ずっと石巻に残るキッカケだったと言います。

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2013年の1月から、省一くんは、石巻の町が朝を迎える直前の風景を撮影し続けていました。キッカケは、町の人が言った『無くなってしまうと、何十年とこの街に暮らしてる私たちでも、そこに何があったのか分からなくなる』という言葉でした。



その時の石巻の風景を遺さないと思い出せなくなる。記録としても記憶としても遺せるようにと感じたのだと思います。省一くんは、今、石巻に住んでいます。石巻には、移住したのではなく帰らなかっただけ。と言います。



石巻で写真を撮り、時々漁師をやり、結婚し、父親になりました。そして、今は、倉敷市真備町で、写真を洗っています。本日、省一くんがFacebookに書いていた真備での活動の思いです。



『アナログであるがために被災しダメージを受けてしまった昔ながらのアルバム。
しかし、アナログであったがゆえに手元に戻ることができるのです。アルバムには家族への愛が詰まっています。
この町で生きてきた記録でもあるこれらの写真が手元に戻って来るということは、この町で今を、そしてこれからを生きていく上で大きな力になると信じています。

まだ200件以上お預かりしている写真たちがいます。
これからどんどん外から来るボランティアが減っていくであろう状況の中で、いかにして地元の人たちを巻き込んだ形での活動として継続させていくかが課題です。 』

鈴木省一



そして、最後にもうひとつ。


本当は、『いしのまきのあさ』のFacebookページを覗いて、これまでに省一くんが撮ってきた写真も見てもらいたいのですが、Facebookをやっていない人には、今朝、省一くんが投稿し、その思いを綴った言葉を読んでもらいたいので、ここにアップします。



省一くんが、最初に見た雄勝の風景が、8年経って、彼にどう見えて、どう感じたのかが、書かれています。写真は、2018年12月31日に撮影した雄勝の朝の風景です。


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2019年の元旦は硯上山から雄勝湾を撮ると決めていた。
山頂から眼下に広がる穏やかに美しい海に今建造中の防潮堤がどのように映えるのか見たかったからだ。
ここ最近防潮堤を撮ることが多い。
僕自身が海沿いに居を移したからということもあるが、石巻の町の移り変わりを記録していこうとした時に今現在も大きく変化し続けている場所がどうしてもそこになるからだ。
そんな大きな壁を目の前にしていると迷いが出てくる。
自分が撮りたかったものはなんだったのか。

2013年1月、少しづつ変わり始めた石巻の景色の中に力強さを感じていた。それでもそこにあり続けようとする人の営みと変わらずそこにあり続ける自然の営みが次第に明るくなる夜明けの時間帯に命の鼓動を刻み始めているように思った。その光景に希望を見ていた。

撮り続けてきた7年間の間で変化を続ける風景と同時に僕自身の視点も変化していたのだと気づいた。それは長く住み続けていくうちに外の人としての視点から生活者の視点になっているということだ。
復興というものに進んでいく石巻の現状にどこかネガティブな感情を抱いている自分がいる。それが見る景色に希望以外の何か負の意識を混在させる。
それ故に迷う。
フラットでいるべきなのか。
否定はできない。
それがあることで安心して生活ができる。また戻ってこれる。少なからずそう思う人たちがいて、そしてその人たちを否定することはできない。

「防潮堤が完成したら生まれ故郷であるこの町を出て別の土地に終の住処を探すよ」と言っている友人がいます。

一つの風景に希望と絶望が混在する。


Facebookページ・・・いしのまきのあさ


2019年1月1日の【いしのまきのあさ】

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硯上山から雄勝湾を望む。




鹿児島では今回も『いしのまきのあさ』のフォトブックを、届けようと思っています。今年もオプシアミスミさんのステージにて行います。詳細は・・・コチラ



追伸:写真はすべて、鈴木省一くんの撮影です。

| ヒトリゴト | 13:53 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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アヤシイ面接

いつもの喫茶店にて。




その喫茶店には、各テーブルにコンセントがあり、ネットも繋がり、珈琲も美味しい。もぉ、仕事をするための喫茶店といっても過言ではない。



そんなお気に入りの喫茶店に、2日続けて通ってるのだが、そこに、もうひとり続けて通ってる人がいる。僕より先に居て、僕より長く居る。



その人の声は、とても通る声で、かといってヤカマシイというわけではない。ひとりで来てるのだが、滞在中に、たくさんの人と会ってる。



どうやら、面接してるようだ。



で、聞こえてくる会話というか、ほぼ一方的なオシャベリが30分ほど続いて、面接された人は帰っていく。そして、その人は、本社に?電話をしてる。



次の人から電話が来たら、喫茶店を指定して、お店の前まで迎えに行く。そして、また30分ほど喋る。



こっちは、ひとりで静かに仕事をしてるので、ついつい聞こえてしまう。聞かないようにしてても、聞こえてしまう。で、気づいたのだが



これ、面接じゃないな。



もちろん、ずっと聞いてるわけではないのだが、聞こえてくるワードが



『もう、これからYouTuberは、頭打ちなんだよね』


『新しいアプリで配信してもらうだけなんだけど』


『ギャラっていうのは無くて、投げ銭というシステムなのね』


『じゃぁ、メリットは何?って事なんだけど』


『これさぁ、◯%だと、少ないって感じがするでしょ?』


『ポイントが上がると』



時折、耳に飛び込んでくるワードが、若干アヤシイ。いや、相当アヤシイ。



『時給制も可能なんだけど、最初にそのシステムは、やってないのね』


『どれぐらいの収入が得られるかっていうと、自分次第なの』




なぜだ?、なぜ面接されてる人は、こんなにアヤシイ誘いを黙って聞いてるんだ?その理由は、ハッキリしてる。



面接をしてる人が、こういう言い方をするとアレだが、カラダにピタッとしたニットの服にミニスカートの美人だからだ。



間違いない。



ええ、明らかに美人というカテゴリーに入る人です。どうすれば、この面接を受けられるんだろうか?



そんな事を考えながら、仕事に集中・・・した。

| ヒトリゴト | 16:49 | comments:0 | trackbacks:0 | TOP↑

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全員集合

兄弟妹そして両親。




兄は、大阪の実家にある電気工事を継いでおりまして、妹は東京に住んでまして、親父は当然、実家の大阪におりまして、オカンは、ワケあって東京と大阪の二重生活をしてまして、自分は、どこに住んでるのかよく分からない毎日です。



そんな家族が揃いまして、まぁ、50歳も超えると、そういう全員集合というのは、冠婚葬祭の時ぐらいになりますね。まぁ、冠婚でいうと、残すところ僕だけになりましたが・・・



前回、全員集合したのを遡ってみると10年前でした。前回は、おじいちゃんの葬儀でした。そして、今回も葬儀でした。10年前に2歳だった甥っ子が、12歳になってます。



今回、実家には『オカンの終活』のお手伝いで、溜めに溜めた物を断捨離する予定を立てたところ、高校時代の部活(バレーボール部)の恩師が、定年という知らせを受け、高校時代の親友と恩師訪問をしようという事で、ここしか合わないというピンポイントで予定を組んだのですが



大阪に帰る前日に、叔父さんが亡くなった知らせが来ました。



もぉね、叔父さんが合わせてくれたというか、呼んでくれたとしか思えないんですよ。



自分の人生、なかなかの波乱万丈っぷりで生きてきましたが、記憶のない2歳から3歳にかけては、全く見ず知らずの人の家で、スクスク育ってきました。そんな僕が、今こうして暮らせてるのは、この叔父さんのおかげなのです。



身長も横幅も、とても大きかった叔父さんが、なんだか小さくなっておりました。なんの恩返しもできないまま、叔父さんには聞こえてないだろうとは思うのですが、顔を見て声をかけて送る事が出来たのは良かったなぁと、勝手に自己満足をしております。



オカンの終活を目的として、妹と実家にたまった荷物の整理をしてたら、まぁ、お決まりのように、山のように写真が出て来たのですが、整理してた封筒に入ってた1枚の写真を妹が何気なく出したら、叔父さんの若き日の白黒写真だったという、なんというか叔父さんの「お前たち、ワシ見とるからな」というお目付け役的な、見守るというよりは見張ってるという、キビシヤサシサを、ここでも感じさせてもらいました。



最近良く言われる『終活』というのは、もちろん年を取ったオカン自身の終活ではあるのだけれど、オカンがいろいろ物忘れしながらも元気なうちに、ちゃんとオカンとの別れの準備を終えておくという意味の『オカンとの終活』でもあるような気がします。



それこそ、叔父さんに見張られてるような・・・



そんな中、実家の荷物ともなると、自分の文字で『これは開けるな!』と書いたダンボールが出てきまして、もぉ、なんか、こっ恥ずかしいタイムマシーン的な匂いがプンプンするんですが



見事にこっ恥ずかしいもんが、わんさか出てきてました。



そんな話は、また後日書くとしよう。



さて、次に家族が集合するのは、誰の冠婚葬祭だろう?

| ヒトリゴト | 14:31 | comments:2 | trackbacks:0 | TOP↑

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